1951-03-27 第10回国会 参議院 文部委員会 第28号
ただ併しこの学校においてどういうふうにしたら一体宗教的な情操というものは養われるものだろうか、成立宗教を教えないで、成立宗教を媒介としないで宗教的情操とか、宗教的信念というものをどうしたら一体養えるかということは非常にこれはむずかしい問題だと私は思つております。
ただ併しこの学校においてどういうふうにしたら一体宗教的な情操というものは養われるものだろうか、成立宗教を教えないで、成立宗教を媒介としないで宗教的情操とか、宗教的信念というものをどうしたら一体養えるかということは非常にこれはむずかしい問題だと私は思つております。
私は、成立宗教というものは、まことにけつこうなもので、すべての人がそういう宗教的な信念を持つということは、まことにけつこうだと自分は思つております。ただ私はどういう点が違うかということを申したのです。要するに、宗教というものは、大きい三つの要素をどうしても欠くことができない。
その違いを簡單に言うならば、私の信念というふうなものは、自分が道を会得し、その道を実現するということですが、成立宗教ということになれば、いつでも道と個人というものを媒介するところのものがなければならない。キリスト教で言うならばキリスト、仏教で言うならば釈迦、そういう媒介者がなければ、ほんとうの宗教というわけには行かないのであります。
○天野国務大臣 私は、それは特定の宗教を奉じておるがゆえに、特にこの学校を補助するとか、特定の宗教であつて、成立宗教で、りつぱな宗教である限り、それを奉じておるがゆえに、補助しないとか、そういうことはないと思います。一般の私立学校という教育の建前から補助するということもあり、補助しないということもあるだろうと思います。
成立宗教のどれに帰依するかということではなくして、何らかの意味において、われわれが絶対者の支配とか、歴史に現れているところの真理性の勝利とか、そういうことに対する確信を強く持つているということは、これは生きて行く者にとつてすべて必要だと思います。
○天野国務大臣 学校の宗教教育ということにつきましては、教育基本法をつくりましたときに、私もその特別委員の一人であつて、当時普通の公立の学校では成立宗教を教えないのだから、ああいう項目はいらないのではないかという論が非常にあつたのです。そのときに、私は、あれはあつた方がいい、宗教的情操を養つて行くという意味において、そういうものが必要だ。
私はそういう点はおいて成立宗教或いは歴史宗教というものは常に一つの一人の歴史的な存在に媒介されている。キリストとか釈迦とかという、併しそういうような一つの歴史的な人物によつて媒介された宗教というものが、学校においてすべて教えられなければならないことは私は考えておりません。